情報の海で吹き荒れる批判の嵐、それらは一纏めに、一様に語っていいものではない。
切り捨てた枝葉の中にこそ核心は眠っていなかったか
忠言は耳に逆らうものであり、他者からの批判というのは不快感が伴うものですが、
えてして不快感が伴う批判ほど、実は自分にとって重要かもしれない。
…なんて口にするのは簡単なんですけどね(言うは易く行うは難し)
世の中には、あくまで批判という目的に付いた枝葉でしかない(石に漱ぎ流れに枕す)
「批判すること自体が目的と化した批判」も多々あり(坊主憎けりゃ袈裟まで憎い)
そうした枝葉末節をいちいち真に受けて消耗するのは、不毛なことだとも思います。
しかしここで問題となるのは、前述の忠言も枝葉も、不快感が伴う点では同じであり、
えてして物事の核心は、数多の枝葉に埋もれていることで
一見同じに見えるそれらを、一纏めに処理するのもまた損失であることでしょう。
例えば、誹謗中傷じみた不毛な批判は相手にする必要がないとしても、
だからといって自分を批判する相手は軒並みブロックするというのも考えものです。
人間というのは、しばしば物事を単純化して認識したがるものですが(一事が万事)
全体の様相は、特定の個の様相から断定できるものではなく(木を見て森を見ず)
画面の向こう側にいる、または眼前にいる、一見同質に見えるその集合もその実、
善意も悪意も、優劣様々が入り混じっていることを自戒すべきなのだと思います。
…なんて口にするのも簡単なんですけどね(2回目
実際には「玉」or「石」の二者択一で綺麗に分類できるほど世の中は単純でもなく、
例えば先の批判の例で言えば、批判自体が目的の、枝葉の批判にも論理はある訳で、
実は傾聴に値する忠言要素が、枝葉の内にも存在する場合だってあるでしょう。
故に、結論や持論を疑わずに信仰する宗教家だったり(泣く子と地頭には勝てぬ)
実力が伴っていないからこそ、自信や自尊心は尊大だったり(空き樽は音が高い)
批判すること自体に自己肯定感を覚える方々にだって、論理はあるもので(他山の石)
それらを真に受けず、無視もせず、目先の批判や勝ち負けに執着するのではなく、
それらの中から「玉」の要素を見出だせるか否かが、何より大切なのかもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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そして結局の所、対立する自他のどちらが「玉」で、どちらが「石」かはわからない