隣の花は赤い - 綺麗な花には訳がある -

「他人のものは何でもよく見えて、うらやましく思うこと」(故事ことわざ辞典より)

 

比較対象として何かを観測するとき、人はそれを心や持論の補強材料として捉え、

自身に都合の良い赤い花を観測すれば、そこで満足して観測を止めてしまうもの。

 

何故、隣の花は赤く、隣の芝生は青くみえるのか

 

『隣の薔薇は赤い,隣の芝生は青く見える,隣の芝は青い』などの類語もありますが、

隣の花が赤く見える、その大きな理由の1つは、

「自身の所有する、既に当然と化したものは目に映らない魚の目に水見えず)」

という相対的な、認識論的な問題でしょう。

しかしもう1つ、

 

その背景にある事情やカラクリを見落としているから

 

という観点もまた、忘れてはならない大きな理由だと思います。

例えば、社会問題を語るとき、比較対象として外国の話がしばしば持ち出されますが、

その外国がその良い側面を発揮するためには、その背景に様々な事情があるものです。

 

例えば、オーストラリアなどでは日本よりも、比較的仕事が楽なのに給与が良い

これだけ聞けば羨ましい限りですが、これはあくまでも労働者目線の話でして、

その裏返しで、人の手が絡むと物の値段が跳ね上がるのに、サービスの質は低い

 

一方、アメリカなどは比較的給与が良い上に(特に贅沢品は)物の値段まで安い

しかしその代償として、国民皆保険などの制度が無いため、医療費が非常に高く、

救急車を呼べば100万円吹っ飛ぶため、貧乏人は通院すらできない超格差社会である。

 

その他にも、給与が良い代わりに失業率が高かったり、超学歴社会だったり、

社会保障が手厚い代わりに税金が異様に高かったりと、こんな事例は多々あります。

そんな裏側の事情を無視して、表側の良い所だけを都合良く取り入れようとしても、

木に竹を接ぐような歪さが生じ、うまくいかない方がむしろ当然というものでしょう。

 

 

因みに当然ですが、これ以外に「環境の差異」というカラクリも存在します。

例えば、資源の乏しい日本が産油国の真似をするのは言うまでもなく困難ですし、

単一通貨によって貧しい国の上に成り立っている国を模倣するのもまた困難でしょう。

 

国の話に限らず、家庭でも個人でも「◯◯に比べうちは〜」なんてよくある話ですが、

隣のように花を赤く咲かせたいなら、その土壌の存在も忘れてはならないと思います。

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

関連記事

安易に背景の異なる他者の真似をした所で、うまくいく保証など何一つない

 

人というのは、眼前の事象を、自身の持論に都合良く解釈したがるもの