如実知自心 - その殻の奥にある本当の自分を知っているか -
「ありのままの自分の心を知ること」(cf.Wikipedia)
子どもの如く直情的に喚き散らす姿が、ありのままの自分でしょうか。
他人の目を気にして、他人に合わせて振る舞う姿が、ありのままの自分でしょうか。
目先も、後先も、いずれも過度に蔑ろにしてはいけない
「キミの…本当の顔は…どんな…顔? お面の…下の顔が本当の顔…なのかな…」
大人になり、相手に合わせ、世渡り上手になる代償という意味で(大事の前の小事)
「仮面(お面)」というのは、人をドキッさせる言葉の定番でしょう。
しかしこれ、子供の頃の思い出や世界を美化している側面も多分にあると思います。
子供は天真爛漫で心が顔に出やすく、「仮面」という言葉とは無縁かもしれませんが、
それ故に、そうした子供の世界では喧嘩や衝突が頻発するものです。
思い通りにならない必然で不機嫌になり、周囲に当たり散らし、皆が不快になり、
そうして目先の心に素直過ぎて、目先のことばかりが頭にあるが故に(朝三暮四)
結局、自分で自分の首を絞めてしまう、それが仮面を付けない子供の世界でしょう。
つまり、人は大人になるにつれ、目先でなく長期的な観点に立てるようになり、
本当の自分の望みに、本当の自分に心に素直に在れるようになるからこそ、
「仮面」という名の、『和を以て貴しとなす』ための知恵を身に付けるのであって、
それを「偽りの顔」などと称すのが適切か否かは疑問の余地があると思います。
が、一方でその、長期的に素直に在るための手段が目的と化し(初心忘るべからず)
肝心要の自身の心を見失ってしまうのも本末転倒です。
それこそ例えば、接客業や接待などで心にも無い美辞麗句を毎日並べ続けていれば、
一体何が自分の本音なのか、分からなくなるような錯覚に陥ることもあるでしょう。
目先の心には素直でない処世術を過度に忌避する必要はないと思いますが、
見栄を張らず、自分を偽らず、他者に囚われない、本当の自分の気持ちは何なのか、
言葉にすれば簡単ですが、それを知るのは難しく、そして、大切なことだと思います。
「自分の本当の顔」なんて言うと、一時の表情に不変的な真実の顔を求めがちですが、
握れば拳開けば掌が如く、人の顔というのは気持ちや状況次第で様々に変化するもの。
手の本質は一時の姿形には無いように、人の本質もまた、その奥にあるものでしょう。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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