握れば拳開けば掌 - 拳を憎んで手を憎まず -

「たとえ同じ物でも気持ちや状況しだいで様々に変化する」(故事ことわざ辞典より)

 

同じ手であっても、握れば人を殴る拳になり、開けば人をなでて愛でる掌になる。

拳と掌、そのどちらも偽りではないが、どちらか一方のみでは手の全ては語れない。

 

一つの観測結果に、その姿形にとらわれすぎていないか

 

「貴方って意外とよく喋るのね、もっと無口な人だと思ってたw」

「もっと面白い人だと思ってたのに…普段は無口でつまらないのね」

 

人は一度他者に「無口な人」や「面白い人」などと評価付けをすると、

あたかもその人がいついかなるときもそうであるかのように錯覚してしまう節がある

かもしれませんが、殆どの場合、人はそう単純ではないでしょう。

 

普段は無口なのに趣味の話では多弁だったり、普段は優しいのに時折冷たかったり、

人はそうした相反する側面を平気で併せ持っているもので(毒薬変じて薬となる

シンプルな二者択一で全てを済ませられるケースなどそうそうなく、

自分が観測している他者はあくまで、そのときその状況での他者でしかないのだと、

 

そうした断片的な側面からその人全体を語るのは論理飛躍

 

であると戒める必要があるのだと思います。

例えば、『罪を憎んで人を憎まず』という考え方。

 

人は自分に危害を加えられると、その原因を他者そのものに求めてしまいがちですが、

自分に危害を加え、自分が観測した他者はあくまでそのときその状況での他者であり、

他者の行動(罪)と人間性そのもの(人)は一度切り離して考えるべきでしょう。

 

人として憤るべきことにはちゃんと憤るべきだと思いますが、

熱湯で火傷したからといって、常温のものも含めた水そのものまで憎むかのように、

一つの行動が憎いからといって、その人全体まで憎むのは話が違うと思います。

 

 

とはいえ、他者の行動のみならず人間性そのものにも原因があるケースだって、

生物が遺伝的多様性を確保するためにイレギュラーを恐れない戦略を取っている以上、

ない方がむしろ不自然というものでしょう。

ただ、そうはいっても実際にそれを見極めるのは難しいことですから、

まずは「相手の人間性は問題ない」から始めるくらいが丁度良いのかもしれません。

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

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