「この世界のすべてが、結局はすべて苦であるということ」(コトバンクより)
ここでの「苦」とは「思い通りにならない」ということ。
この世界は、どうにもならない、自分の思い通りにならないことで満ちている。
そこに他者がいれば、互いの「自分の思い通り」は衝突する
哲学とは、世界そのものではなく、世界の観測の仕方を変革するもので(豚に真珠)
人間、『中観(空観)』や『足るを知る』などを実践し、観測の仕方を制御できれば、
自身の心の中の世界においては、割と自由に在れるものだと思います。
が、これって言い方を変えれば、どうにもならない現実を前提とした処世術なのです。
何故現実世界は、かくも自分の思い通りにならないのかと言えば、その根本の原因は、
そこに自分以外に他者が存在することでしょう。
もし世界に存在するのが自分一人だけなら、そこには何の価値も生じません。
相対比較ができませんから、ある意味では自身を観測することすらできません。
しかし、そこに自分以外の他者が現れると、無価値だったそこに相対性が生じます。
頭が良い方と悪い方、運動神経が良い方と悪い方、平均より良い方と悪い方が生じ、
相対的に人数制限がある夢を求めれば、必ず誰かは夢が叶わなくなります(嘘も方便)
人数制限のない資格試験なども、その根本は周囲や先人の知識水準との比較競争です。
皆でサッカーをしたい子と野球をしたい子、会社を辞めたい人と辞められると困る人、
考えの異なる人間が相対すれば、必ずどちらかは、少なくとも妥協を強いられます。
もし将来、老いや病,死などの事象を、科学技術の発展で克服できたとしても、
人の認識が相対的である以上(人間は万物の尺度である)
相手の行動や在り方を決めるのは相手自身である以上(パブロフの犬)
きっと恐らく、世界は相変わらず、自分の思い通りにはならないことばかりでしょう。
なに?世の中自分の思い通りにならないことばかりで嫌になる?
それは無理矢理、自分の思い通りになることを前提に考えるからだよ
逆に考えるんだ「自分の思い通りにならないことの方が普通なのさ」と考えるんだ
思い通りになることが普通と考える人の目には、思い通りにならないことが煩わしく、
思い通りにならないことが普通と考える人の目には、思い通りになることが有り難い。
どちらを基準色と捉えるか次第で、その目に映る世界のコントラストは反転するもの。
思い通りにはならない、そんな世界をどう観測するかは結局、私達次第でしょう。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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