人間は万物の尺度である - 相対性が創り上げる世界 -

「すべての判断の基準は、個々人に属する」(コトバンクより)

 

人間の認識はアテにならない。

しかし、心によって創り上げられる架空の世界にも、法則性はあると思います。

 

比較対象なくして認識や評価は成立しない

 

相対主義を唱えたプロタゴラス曰く、

「人間の認識や評価は相対的だから、絶対的な真理は存在しない」そうな。

 

まぁ、世の中には相対的な速度が絶対的である光速なんて代物も存在しますから、

果たして本当に相対的な世界に絶対的な真理が存在しないのかはさておき、

比較基準が自分の中であれ他者であれ

 

人間の認識や評価は相対性に基づいて創り上げられる

 

という側面はあると思います。

 

例えば「プロ野球のスター選手はなぜスターになれたのか」という問いに対し

語弊を恐れず、紛れもないひねくれた事実を申し上げるのであれば、

それは「他の選手がそのスター選手よりも下手だから」です。

 

勿論「運動神経が良いから」とか「相応の努力が実を結んだから」という側面も、

そうした尊重されるべき事実も、間違いなく存在するでしょう。

しかし、もし周囲がその人以上に運動神経抜群で、努力できる人ばかりだったら、

そのスター選手はスターどころか、プロ入りすらできない凡人と化します。

 

これはスポーツ選手に限らず、例えば東大生や広義の勝者についても同じでしょう。

勝者は強いから勝者たりうるのではなく、敗者の存在があるから勝者たりうるのです。

 

 

こういう話は「そんな身も蓋もない無茶苦茶な…」なんて思われるかもしれませんが

国際化の進んだ現在においてはそう珍しくもない話だと思うんですよね。

 

例えば、日本に住んでいると「マナーが悪いなぁ…」と言われるような人でも、

中国に行ったら「割と普通 or むしろマナーが良い」なんて言われるかもしれません。

(決して中国批判ではありません。文化に優劣はなく、単純な差異だと思います。)

人間の認識や評価で、絶対的で普遍的なものなど、そうそうないのでしょう。

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

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だから空虚な認識や評価に振り回されてはならない。そんなものないと思ってもいい。

 

故に比較対象の乏しい、身近にありふれたものは、例え重要であっても霞みやすい。