「値打ちがわからない者にはどんな価値あるものも無意味」(故事ことわざ辞典より)
数々の問題の答えやヒントはどこか遠い、特別な場所にある訳ではなく、
すぐ近くの足下に、そこら中に石ころのように転がっているものなのだと思います。
問題意識を持たない人の眼に答えやヒントは映らない
「犯人はヤス」
恐らく(ネット上で)最も有名なネタバレの一つ。
元ネタはファミコンにて1985年(PC版は1983年)発売の『ポートピア連続殺人事件』
ある人にとっては酷いネタバレであり、またある人にとっては衝撃の事実なのですが、
殆どの現代人にとっては「…で?」の一言で終わってしまう無価値なもの*1でしょう。
なぜなら、元ネタの推理ゲームを知らない人にとって、
問題を持たない人にとって、その答えは何の価値もない
からです。そこに興味や疑問があるからこそネタバレはネタバレたりうるのであり、
問題を持たない人にとっての答えなど、豚にとっての真珠に等しいのだと思います。
ですから同じ状況に居合わせても、ある人は「答えを見つけた!」と歓喜し、
またある人は「そこに一体何(の価値)があるのか?」と首をかしげる。
対応する問題意識を持っているか否かで、世界の光景はそれほどまでに姿を変えます。
その意味では、人は価値を見出したものしか視ることができないとも言えるでしょう。
そもそも価値とは本質的なものではなく、人の心が創り出すものです(色即是空)
対象を疑い、新たな側面や観点から意味や理由,価値を見出すのが哲学と定義するなら
哲学は世界を視る眼であり、新しい哲学は新しい世界を見せてくれるのだと思います。
昔買った本を読み返してみると、当時は特にピンと来なかった文章に対し
「あ〜!これはこういうことだったのか!」とか、
「これ、自分が探し求めていた、今の悩みの答えだ!」となったこと、ありませんか?
本に書かれている文章は何も変わっていないのに、読者が変われば本の価値も変わる。
これは読者が新しい世界を視る眼を手に入れた典型例ではないかと思います。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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