「道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てない」(故事ことわざ辞典より)
議論は相手を変えられません。あくまでも相手が、自身の意思で、勝手に変わるだけ。
ならば議論で大切なのは相手ではなく、それを通して自分が何を得られるかでしょう。
互いの協力なくして建設的な議論は成立しない
「相手を論破する」…良いねぇ、シビれるねぇ、あこがれるゥ!
では、相手を論破するとその後どうなるのでしょう?
確かに、意見を決めかねている第三者の聴衆へのアピールにはなるかもしれません。
では、肝心の論破した相手はどうでしょう?素直に考えを改めてくれるでしょうか?
残念ながら、現実はそんな単純ではないでしょう。
なぜなら相手の行動や在り方を決めるのは他ならぬ相手自身であり(パブロフの犬)
人の思考はえてして結論ありきで、論理は枝葉末節だからです(石に漱ぎ流れに枕す)
まして「論破された相手には従わねばならない」なんてルールはないのですから、
相手を論破することと、相手が変わることは全くの別事象
であり、ただ論破しただけでは「屁理屈を並べやがって」と納得してくれなかったり、
相手が悪ければ「よくも恥をかかせてくれたな」と恨まれることすらあるでしょう。
故に、どれだけ論破しようとも、元から変わる気のない相手は変わりません。
互いに無知を嘆き真理を探究する者同士なら建設的な議論ができるかもしれませんが、
持論を信仰する信者同士が議論をしたところで、排他的な宗教戦争にしかなりません。
眼前の相手はどんな人でしょう?持論を疑う哲学者?それとも信じる宗教家?
何のために議論し、仮に相手を論破できたとして、それでその後どうなるのでしょう?
議論に際してはまず、そんな根幹部分を確認することも大切かもしれません。
尚、「論破されても改めないなんて傲慢だ!」なんて思う方もいるかもしれませんが、
「詭弁術」なんて言葉もあるように、そもそも議論は弁論術を競うものではあっても、
それに勝った側の正しさを保証するものではありません(分別過ぐれば愚に返る)
それこそ、例え悪意はなくとも、結果的に正しいのは相手の方だったのに、
議論では何故か間違っている自分の方が勝ってしまっていた…なんてこともあります。
勿論、議論は互いの盲点を補い合うための手段や過程としては有用だと思いますが、
そこに過度な幻想を抱いてしまってはいないか、自戒してやることも大切でしょう。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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