自分を高めるのは一生でも、他者を下げるのは一瞬。安易な方向に逃げていないか。
- 他人や他国での宜しくない出来ごとに学び、自分も同様なことがないか反省して、発展の糧とすること。 ここでの石とは、古代の武器や宝石の意味を持っている。 自分のところの石だけでは、より良い武器や宝石は磨くことが出来ない、他の山の石でそれらを磨けと.. 続きを読む
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「批判」は中傷や保身の免罪符にも、驕っていい理由にもならない
人は誰もが、盲点の存在しない世界の住人であり(言うは易く行うは難し)
自分のことは盲目的なのに対し、他者の粗はよく見えるものですから(岡目八目)
互いに批判し合い、盲点を補い合おうとするのは大切なことでしょう(和して同ぜず)
しかし、批判というのはそれ自体が、他者を攻撃することが目的になりがちです。
それは前述の自身に対する盲目性と他者に対する客観性の弊害であることは勿論、
何より人の認識は相対性によって構築されるため(人間は万物の尺度である)
自分とは異なる対象を批判し、自分の下に置くことによって、
相対的に自身の価値が高いと錯覚できてしまうのも大きな一因でしょう。
ですが、そうして他者と不要に対立しては、本来伝わるものも伝わりません(折檻)
そもそも、相手の不当性を自身の正当性の論拠にするのは論理飛躍で(猿の尻笑い)
私達の認識する他者の誤りは殆どの場合、他者との差異でしかなく(忠言耳に逆らう)
異なる自他のどちらの方が正しいかの判断は困難で(燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや)
自分の世界では間違いでも、相手の世界では正解ということもあります(顰に倣う)
加えて、私達は仮初めの劣等感や優越感に執着する必要などなく(天上天下唯我独尊)
自分の在り方を合理的に選択できる力も持っているのですから(天理人欲)
「間違っている」と感じるのは自身の無知故ではないか(ダニング=クルーガー効果)
むしろ、相手の姿に自身の自省すべき姿が映っているのではないかと(人こそ人の鏡)
批判衝動に駆られたときこそ、自身を、心理を、冷静に観てやることが大切でしょう。
他山で石を拾った際、私達はそれを批判の道具として相手に投げつけることも、
自身を省みて、自分を磨くための道具として活用することもできます。
「批判することは悪いことだ」と言うつもりはありませんが、ただ石を投げるだけで、
ただ批判するだけで満足し、それで終わってはいないか
それは何のための批判で、自身の糧にできているか、自戒することが大切でしょう。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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多くの場合、目先の議論の勝敗など枝葉末節で、そこから何かを得られた者こそが勝者