「中身のない人ほどよくしゃべるということのたとえ」(故事ことわざ辞典より)
相手が知らない知識を断片的に集め、披露するのはそう難しいことではありません。
難しいのは、そして大切なのは、眼前の相手が博識なのか浅識なのかを見極めること。
博識でも浅識でも、よく喋る人はよく喋る
「相手の嘘を見抜く方法」というのは、心理学的には未だ無いそうです。
厳密に言えば「嘘をついている人に共通する仕草」的なものも無くはないのですが、
正直者まで嘘つきだと誤検出するリスクがあるなど、結局は確率論の域を出ず、
他者の言動からその内側を“断定する”のは危ういのだそうな。
その辺りの事情はこの『空き樽は音が高い』も同じで、相手がよく喋るからといって、
一意に「こういう人はこうだ」と単純化すべきではないでしょう(一時が万事)
が、一方で、多くのことをよく喋る人が博識であるとは限らず、むしろ逆に、
無知だからこそ自信満々で多弁という“可能性を考慮する”
ことには一定の価値があるとも思います。
例えば世の中、政治でも儲け話でも、断定的に多くを語りたがる人はいますが、
その人達は何故そう声高に自身の正義や主張に陶酔できるのでしょうか?
勿論、その事柄を本当によく理解しているからかもしれませんが、
相手を勧誘する際のテクニックとして、博識ぶっているのかもしれませんし、
無知故の自信過剰に陥っているだけなのかもしれません(ダニング=クルーガー効果)
眼前の相手が博識だと感じたら、そんな観点から切り取ってみるのも大切でしょう。
さて、ここまで読んで既にツッコまれている方もいるとは思いますが、
『空き樽は音が高い』って、まさに当サイトのこと、すなわち小生のことである。
エラそうにこんな記事をかれこれ100以上書いてきた訳ですが、
世界を前にすれば小生が観測してきた世界などあまりに狭く小さく盲点だらけで、
これらの記事も“わかったつもり”に陥っているが故の産物に過ぎません。
だからこれまでもこれからも、締めくくりはこの一節で。
今ここからの光景は、こんな感じ。
関連記事
私達は誰もが皆少なからず、盲点が存在しない世界の住人である
権威者の発言には価値があるが、あくまでもそれは、その権威が本物であれば、の話