堂が歪んで経が読めぬ - その重みは、そしてその比率は如何程か -
「他のことにかこつけて、自分の怠慢や落度の言いわけをする」(ことわざ辞典より)
坊主「あーつれぇわー。お経を読みたいけど仏堂が傾いてるせいで読めねぇわー。」
まぁ確かに、気が散るのは事実でしょう。しかし、それと本人の怠慢はまた別の話。
他に原因や責任があることは、自身の落ち度の言い訳にはならない
世界は複雑でありながら、人はそれを単純化したがるものですが(一事が万事)
それは原因や責任といった類いの話でも同様だと思います。
例えば「上司が無能」「部下が使えない」と、原因や責任を他者に押し付けることで、
「だから自分は悪くない」と自身の正当性の論拠にしようとしたり(猿の尻笑い)
逆に自責の念に駆られて、あたかも全て自分が悪いかのように思い込んでしまったり、
原因や責任を1つだけに単純化したがるのは、そう珍しい話でもないでしょう。
しかし、「真実はいつもひとつ!」でも犯人はいつも1人とは限らないように、
犯人を1人見つけて安心してたら、実は他も全員共犯だったなんてオチもあるように、
原因や責任だって、いつも1つであるとは限りません。
誰か1人の落ち度に見える事柄でも、それをフォローできなかった周囲の存在や、
それを誘発させた環境や事象がその背景に存在する場合もありますし、
『風が吹けば桶屋が儲かる』ことや「最大の敵は無関心」なんて観点まで考慮すれば、
むしろ原因や責任がない存在の方が珍しいと言っても過言ではないでしょう。
故に、大切なのは
原因や責任の有無ではなく、その比率を論じることであり
自身の周囲に原因や責任を見出せば、自身が免責される訳ではなく、
逆に自身に責任を見出せば、自身の周囲が免責される訳でもなく、
特定の原因を見出しただけで、それを批判しただけで満足してはいないか(他山の石)
そうしてそれ以外を過度に軽視していないか、自戒することが大切なのだと思います。
ただし、人は他ならぬ自分自身のことについては案外盲目的だったり(岡目八目)
人によって感受性は千差万別で、同じ対象でも重みが異なる場合もあるなど(環世界)
「比率を論じる」というのも一筋縄では行かない点には注意が必要でしょう。
語源となった坊主も、もしかしたら脅迫性障害で切実だった…かもしれませんしね。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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