「当事者よりも第三者の方が冷静で客観的に物事を見れる」(故事ことわざ辞典より)
もし、仮に、例えば、今回は、いわゆる“神様”は存在しないと仮定しましょう。
それでも、対象が偽りの神でも故人でも、心の中の他者に語りかけることは有用です。
自分から離れなければ、自分の姿は見えない
人は行動や経験なくして何かを理解することはできず(知行合一)
経験の伴わない他者を語ることは、架空の他者を思い込みで語るに等しい。
…などと言い続けてきた当サイトですが、
自分の眼では直接、自身の後ろ姿を見ることはできないように、
ダンサーやスポーツ選手が、鏡や録画した動画で自身のフォームを確認するように、
逆に当事者であるからこそ、自身の姿を客観視するのが難しいこともあるものです。
このため、自身の心情と内情に精通し、かつ、冷静で客観的に物事を見れる、
欲を言えば、そんな第三者から助言を貰えるのが理想な訳です。
が、そんな都合の良い第三者がいなくとも、それに近い客観性を得られるのが、
(自分の心が創り上げた)“神様”に祈るという行為です。
他力本願に「願う」のではなく、意思を乗せると書いて「意乗る(祈る)」のが肝で、
何しろ相手は心の中、情報劣化のない完全な意思疎通が可能で (百聞は一見に如かず)
第三者に伝えようと言語化する際の、思考や心の整理という恩恵のみを享受できます。
しかも、歴史という壮大な実験結果の教義によって構築された神様なら(自然淘汰)
自分自身でありながらにして、ある程度は第三者性も発揮されるというものでしょう。
あ、そこの「なんだこの宗教宣伝サイトは」と思われた方、ちょっと待ってw
宗教や神様と言うと胡散臭いですが、広義には疑うのが哲学、信じるのが宗教であり、
宗教も崇拝対象や教義に疑問を覚えれば、それはもはや広義の哲学ですし、
逆にどんな思想や哲学も、信じてしまえばそれは広義の宗教に該当します。
その意味では、無宗教で無魂洋才と言われる日本人の中にも、広義の宗教は形を変え、
信仰という根本の部分は、今尚様々な形で息づいているものだと思います。
例えば、社会人経験の乏しい就活生が創り上げる仮初めの自分像やキャリアプランは、
暗中模索で不安な就活において、軸となり信じられる、ある種の神様と言えますし、
同様にスポーツ選手の行うルーティーンだって、ある種の礼拝行為…かもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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自分を、思想を、神様を、何かを信じられることは、大きな力になる