「行動を伴わない知識は無知と同じ」という言葉には二つの捉え方があると思います。
- 真の知と真の行いはひとつのものであるということ。 中国の王陽明の唱えた説である。 続きを読む
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焦点を行動に当てるか、知識に当てるか
『知行合一』というのは、簡単に言えば実践重視の考え方です。
「知っているということは、実際に行動しているということ」
「実践できないなら、行動していないなら、それは知らないことと同じ」
といった具合に、一般的には“行動に焦点を当てた”、
口ばかり達者で何の行動も伴っていない人間に対する批判の言葉でしょう。
例えば飲み屋でプロスポーツ選手をボロクソに酷評してる素人のおっちゃんとk
しかし、この言葉は“知識に焦点を当てる”と別の側面が見えてきます。
すなわち、「行動が伴って初めて知る(理解する)ことができる」ということは、
裏を返せばそれはつまり、
人は行動や経験なくして何かを理解することはできない
ということで、経験を共有できない他者のことは理解できないことになります。
例えば、周囲から「事故に気を付けて」と言われても聞く耳を持たなかった人間が、
実際に事故を引き起こしてしまって初めてその重みを痛感した…なんてよくある話で、
人は他者やその言葉を“わかったつもり”にはなっても、理解してはいないのでしょう。
つまり「こんな文字情報のブログだけ読んでも無駄無駄ァ!」ということですね
某錬金術師の冒頭の一節「痛みを伴わない教訓には意義がない」もこの類いでしょう
経験なんて環境の数だけ、人の数だけ、それこそ無限に存在する。
しかも、人もそこからの光景も、その生涯を終えるまで延々と変わり続け(万物流転)
一人の人間が得られる経験、それに伴う知識なんて、氷山の一角にも程がある。
そりゃ経験の異なる他人の観測している世界なんて、理解できなくても当然。
人間関係の歪みというものは、「相手を理解できない」という不安よりもむしろ、
「相手を理解できた」という傲りから生じるものなのかもしれません(月とすっぽん)
今ここからの光景は、こんな感じ。
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