「二つのものの違いがあまりに大きすぎて比較にならない」(故事ことわざ辞典より)
実際に当事者として体験してみなければ、当時者の気持ちはわからないでしょう。
そして例え似た経験をしていると思っていても、それが本当に似ている保障などない。
比較にならないほど違うものにも類似点はある
天空に輝く月「わかるよ君の気持ち!私も君と同じで丸い形をしているからね☆」
泥沼の中にいるすっぽん「違う、そうじゃない。そっちの常識押し付けないでホント」
人は経験なくして何かを理解することはできません(知行合一)
ならば、自分の経験とは異なる、他者が経験したことを、
他者のことをどのように理解しようとしているかといえば、
自分の経験から似たものを探し、それを他者に当てはめて考えているのだと思います。
勿論、そうして他者を理解しようとする姿勢が間違っているとは思いませんし、
似た経験によって自分の感覚を共有・共感してくれる人は大変有り難い存在でしょう。
ただし、自分が似ていると想定した経験が、本当に他者のそれと似ているならば。
経験というのは、似て非なるケースもたくさんあるものです。
そして人にもよりますが、それが本人にとって重大で、深刻な案件であればあるほど、
「私も経験したから、わかるわかる。ここがストライクゾーンだろ?(ドヤァ」
と言いながら投げられる大暴投は、「全然わかってないよ」と言いたくなるような
的外れな共感は、受け手にとって極めて腹立たしいものとなりがちだと思います。
他者に理解や共感を示す行為はある種、諸刃の剣であり
相手のことを“わかったつもり”になる、そんな傲りが人間関係の歪みを生むのだと、
『無知の知』を戒めた上で他者に接することが大切なのではないでしょうか。
人間は自分の頭の中の、自分の常識の世界でしか生きられない存在であると同時に、
他者というのは往々にして、そうした常識の外の世界の住人だと思います(環世界)
ですから一見同じことに直面しているように見えても、その人の持つ背景次第で、
そこからの光景は、自身の想像や常識とは大きく異なっているのかもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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人間や生物は多様な存在であり、自分と他者の常識が同じである保障などない
相手を完全に理解できないことは、低い理解度に甘んじていい理由にはならない