空観,仮観,中観 - その世界を創り上げているのは誰か -
いつもの如くわかりやすさ重視で、『空観,仮観,中観』“のような何か”について。
私達は脳というプログラムに支配されたゲームの住人である
「実はこの世界は、ゲームの世界と大差なかったんだよ!」(な、なんだってー!!
例えば、この世界は私達の感覚器官が感知可能な範囲の情報を元に(環世界)
脳によって創り出された架空の代物でしかなく(コペルニクス的転回)
その構造はプログラムが創り上げたVR(仮想現実)の世界とそう変わりません。
また、冷静に考えれば「一体何の意味があるんだ?」と思える非合理的な行為でも、
脳が設定した価値基準を理由に求めてしまう私達の様は(我思う、ゆえに我あり)
ゲームが設定したレアアイテム(キャラ)を追い求める様とそう変わらないでしょう。
更には、この世界もゲームの世界もどちらも電気や原子の状態でしかないことも含め、
この世界もゲームの世界も、幻の可能性を否定できない点ではそう大差はないのです。
そうした意味では富も名声も、根本的な構造はゲームのレアアイテムと大差はなく、
私達は脳(ゲーム)や社会(運営)が後付けした価値に踊らされているに過ぎません。
そしてそんな現実世界という名のゲームと、富や名声という名のレアアイテムに対し、
「ただのデータ、ゲームに必死になって馬鹿じゃないのw」と考え至ったのが空観、
「例えデータでも、レアアイテムはあるだけ欲しい!」と執着してしまうのが仮観、
「データに固執などしない、けど…ゲームって面白いやん?」と考えたのが中観です。
さて、『空観,仮観,中観』、個人的にはどの生き方も個性の範疇だと思いますが、
現実の世界には「人数制限付きの夢」という数量限定のレアアイテムが存在する以上、
「ゲーム(人生)が楽しくないのは運営(社会)やアイテム運(金運)が悪いせいだ」
と事象の有無を絶対視する『仮観』だけでは、息苦しいことも多いでしょう。
そんなときには、クリアを目的とせず、楽しむための手段としてゲームに取り組み、
アイテム運のなさもゲームの面白味の一つとして楽しむ
そんな『空観』と『仮観』のバランスをとった『中観』が役に立つ…かもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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どんなレア度のアイテムもキャラも、本質的には等しく空でしかない