我思う、ゆえに我あり - ならば、そう思っているのは誰の意思か -

今回は人によっては少し不気味に感じるかもしれない、そんな話。

我思う、ゆえに我ありとは

私達の思考や行動は、脳からの影響を大きく受けている

 

夢の中の世界は観測はできても実在はしないように、観測は存在の証明にはならない。

それは眼前の現実世界も例外ではなく、疑わしいものを全て取り除いてやると、

最後に残り、唯一存在を肯定できたのは、そうして思考をしている自分自身だった。

 

というのが、かの有名なデカルトの『我思う、ゆえに我あり』の概要…なのですが、

最後に残ったそれは、その思考や行動は、本当に自分の意思によるものでしょうか?

 

例えば食欲。味覚は栄養価や栄養バランスと必ずしも相関がある訳ではなく、

味を追求して精米し、白米が主食となった時代にはビタミン不足で脚気が流行したり、

過剰摂取が糖尿病などに繋がる砂糖には薬物中毒と同様の依存症があるなど、

私達は味覚という、脳の下す非合理的な判断に踊らされている側面もあるものです。

 

例えば性欲。子孫を残せるか否かが全ての自然淘汰では非常に重要な“情動”ですが、

個体レベルで観れば、(動画や絵も含む)異性に欲情したり、異性を求める行為自体、

単に脳内に分泌される幸せホルモンの中毒に陥っているだけに過ぎず、

その挙げ句性犯罪や中絶にも至る人間社会での合理性については疑問が残るでしょう。

 

そのほか月経前症候群カフェイン中毒などによる精神症状も含め、

私達は思考や行動を、必ずしも自身の意思によってのみ決めている訳ではありません。

人は誰しも少なからず、脳内に分泌される幸せホルモンの依存症で、極端に言えば

 

他ならぬ自分自身の脳にマインドコントロールされ

 

時にはその行動の持つ意味や合理性すらも理解できていないまま

無意識の内に非合理的な方向へと走らされてしまっていることもあるのでしょう。

 

 

とはいえ、一方で幸せホルモンには健康増進効果という合理性もあり、

追い求めるのが無意味という訳でもないので、過度に忌避する必要はないと思います。

しかし、依存症の自覚がないまま身を滅ぼしてしまうのも考えものですから、

その選択は本当に自分の意思によるものなのか、自問自答してみるのも一興でしょう。

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

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