先人の教えを学ぶには『郷に入っては郷に従え』と同じ謙虚さが必要かもしれません。
自分の世界と理解力を過信してはならない
昔からの先人の教えというのは、結論こそ明確なことが多いですが、
「なぜそうなのか」という、しっかりした理由が必ずしも伴っているとは限りません。
例えば子供に「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問をされた際、
きちんとした理由を説明できない大人も多いと聞いたことがあります。
ある種のその極みは会津藩の什の掟での『ならぬことはならぬものです』でしょう。
この問答無用さはしばしば思考停止と批判されることもあります。が、
そんなに人の理解力が優れているなら、苦労はしません。
人は行動なくして、つまり経験なくして何かを理解することはできません(知行合一)
まして、言葉で意思疎通できる情報量などたかが知れています(百聞は一見に如かず)
対して、昔からの教えというのは一人の人間の経験や理解力など到底及ばない、
数多の先人の失敗と経験則から編み出された、歴史という壮大な実験結果の結晶です。
そうした先人の知恵を自分の小さな経験から得られた世界から眺め、
まして言葉で説明さえしてくれれば自分は理解できると考え、
勝手にわかった気になって安易に否定するなど、愚者と言われても仕方ないでしょう。
オットー・フォン・ビスマルク「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
無論、『温故知新』は決して先人の教えを盲信しろというものではありません。
時代や環境の変化によって柔軟に考えを変えていく必要はあります。
しかし同時に、歴史に対し、先人の教えに対し謙虚である必要もあると思います。
人は自身の世界を絶対視し、自分の理解できないことを嘲笑しがちです。
ですから『温故知新』は『温故』を意識しすぎるくらいで丁度いいのかもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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先人の過ちをただ断罪するだけでは、過去から教訓を得たとは言えない