盗人にも三分の理 - 他者の過ちにも理解と共感を示せるか -

「悪事を働いた者にも、それなりの理由はあるものだ」(故事ことわざ辞典より)

 

本当の、根っからの狂人など、悪人など、そうそういないと思います。

(ただし「全く存在しない」とも思いません。それが先天性であれ、後天性であれ。)

 

過去の過ちから学ぶことは忌み嫌うことではない

 

先の戦争は悪かったのか、そもそも戦争に善悪などあるのか、

関ヶ原の戦いなども侵略戦争なのか、過去の武将(偉人)は平和に対する罪の戦犯か

 

本来ならまず、こういった議論を先にする必要があるのですが、

今回はそれをすっとばし「先の太平洋戦争は日本の過ちだった」と仮定します。

 

歴史から過去の過ちを学び、教訓を得て現在の糧とするのは大切なことです。

しかし「過去の過ちを学ぶ」といっても経験なくして理解はなく(知行合一)、

過ちを犯した先人を理解することは困難です。

そんな理解できない他者を悪人と見なして批判する行為は教訓を得ることとは程遠く、

むしろ責任転嫁や思考停止であり、何もわかっていないことと同じだと思います。

 

過去の過ちたる先の戦争を起こしたのは、特別な悪人ではなく自分と同じ人間であり、

自分も当時と同じ立場や環境にいたら同じ判断をしていたかもしれないと戒め、

 

当時の論理を理解し、心境に共感し、その上で否定する
 

そうして初めて過去の過ちから教訓を得ることになるではないでしょうか。

 

戦争に至った背景にはどんな事情があり、どんな合理性があり、どんな理想があり、

そしてどんな時代で、どんな環境に囲まれていたのか

その理解できないと思う人間を理解しようとする姿勢を怠り、一方的な価値観から

「馬鹿だった」「狂っていた」「欲に溺れていた」「無知だった」「差別主義者」

 などと断罪して片付けるのは、それこそ過去を直視できていないに等しいと思います。

 

 

人は自分の世界からの光景を絶対視し、理解できない他者の世界を嘲笑しがちです。

故に過去の過ちを否定することは簡単ですが、どんな行動にも理由があることを、

『盗人にも三分の理』があることを忘れてはならないと思います。

 

誰だって今は理解できないと思う『盗人』になる可能性を内在していると戒める。

そうした理解と共感の先にこそ、本当の歴史からの学びはあると思います。

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

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