禍福は糾える縄の如し - 不幸なくして幸福は定義できない -
「幸福と不幸は表裏一体で、かわるがわる来るものだ」(故事ことわざ辞典より)
そうして、幸福も不幸も長くは続かない。
それは信仰の類いなどではなく、しっかりとした理由があると思います。
永遠に続く楽園は存在するか
そもそも何を幸福と感じるのかは人によって様々です。
全く同じ状況に居合わせても、ある人は幸福と感じ、またある人は不幸と感じる。
なぜなら、人間の認識や評価は相対性に基づいて創り上げられるが故に、
幸・不幸はそこにあるものではなく、
それを認識する人がそこから見出すものだからです(色即是空)
この際、認識する人の持つ価値基準と相対的に比較され、
それが幸福なのか不幸なのかが判断される訳ですが、
人間には良くも悪くも“慣れ”というものが存在する
ということが、ここで問題になってきます。
どんなに幸福と感じるものでも、常にそればかりに身をさらし続けた結果それに慣れ、
それがあって当然であることが新たな価値基準になってしまうと、
その価値は途端に失われ、認識から霞んでしまいます。
それどころかそれ以前の、元々の状態が新たに不幸と認識されるようになります。
楽園は、比較対象である地獄があるからこそ楽園たりうるのであり、
楽園に身をさらし続ければ、そこは単なる平凡と化し、
かわりにそれまで平凡だった日常(現世)が相対的に地獄と化すのだと思います。
そんな訳で幸福と不幸は表裏一体で、長くは続かず、かわるがわる来るのでしょう。
幸福が永遠に続くためには「日々、より幸福になり続ける」必要があり
そうして価値基準が変動するほど、より些細なことで不幸になりやすいのですから。
(逆の「不幸は永遠に続くか」ということについても然り。)
実は幸福こそが不幸に、不幸こそが幸福になる最大の要因…かもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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それがどれだけ重要であろうと、ありふれたものは目に映らない。
実はどう足掻いても『禍福は糾える縄の如し』から逃れられない訳でもない