「理性のみで動こうとすると、人間関係がぎすぎすする」(故事ことわざ辞典より)
実際には単なる自分の都合や理屈でしかないことを「合理的」と勘違いしていないか。
今回は「合理」という言葉を使った、表面上の、少々言葉遊びの側面も強い話。
誰かに提示された、“他者の世界の”正しさだけでは人は動かない
「人は合理性だけじゃ動かないよ。もっと感情に配慮してあげないと。」
しばしばこういった類いの言葉を耳にしますが…これは実際、その通りでしょう。
人は理屈ばかりで動く訳ではなく、ときには理屈に合わないことでも、
感情を理由に押し通してしまうことだってあると思います。
が、こうした言葉を聞く度に思うのですが…人がそうして感情を理由に動くことは、
そうした相手の感情を配慮することはその“合理性”には含まれないのでしょうか?
例えば、『心の距離』は人によって異なるのものですから(急がば回れ)
真に合理的な提示をするには、提示相手の心情理解が必要不可欠なはずでしょう。
また、人は例えるなら感情という名の燃料で動く機械なのですから(一念岩をも通す)
論理や理性ばかりで動いて相手の感情を考慮しないのは、
機械のパーツばかりを気にして、肝心のエンジンや燃料は考慮しないに等しいもので、
電気自動車にガソリンを注ぎ込んだ挙げ句「こいつ動かねぇ」と不平を言うような、
そんな滑稽な光景を「合理的」と称するのは無理があるのではないかと思います。
「合理」は一個人の世界の理屈のみでは完結せず、
他者との関係性によって成立する人間社会の中で人は生きているのですから、
「合理」と称し独善的な理屈を押し付けてはいないか、自戒することが大切でしょう。
『天理人欲』曰く、自分という機構をマネジメントし、合理的に在るためには、
人欲(というエネルギー)を如何に制御して天理に従うかが大切な訳ですが、
それは他者という機構をマネジメントする際も同じだと思います。
むしろ他者の方が、どんなエネルギーにどんな反応をするのか不明瞭なのですから、
同じ世界にいながらにして異なる世界を観測する他者に謙虚で在り(環世界)
自分以上に、より丁寧に感情を意識してやることこそ合理的…なのかもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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