「どんなことにも、もっともらしい理屈がつくものだ」(故事ことわざ辞典より)
つまり「論理や大義名分が伴わない間違いや暴挙など存在しない」
…と言ってしまっても過言ではないのだと思います。
盗人にも三分の理は伴う
「人は経験なくして何かを理解できない(知行合一)
よって、経験が異なれば異なるほど、他者の見ている世界の理解は困難を極める。」
「人間は認識対象そのものを認識してはいない(コペルニクス的転回)
むしろ心が認識対象を創り上げているから、如何様にも認識は創れてしまう。」
…という人間の性質を踏まえれば、
人は少なからず「自分の考えが一番正しい」と思っている
と言えるのではないでしょうか。
他人がどうかはわかりませんが、少なくとも私にはそういう側面があると思います。
相手の見ている世界はよくわからず、
自分の見えている世界では「だって………でしょ?」という論理が伴う。
そりゃ「あいつはわかってないなぁ…」という思考に至るのは必然だと思います。
例えホントは自分の視野が狭いだけでもね。だって人間だもの(小生
でも、自分の考えに論拠が伴うことなんて当たり前の話であって、
それ自体はなんら自らの正当性を示す論拠にはなりえないでしょう。
だって多分、論拠の伴わない考えなんて存在しないと言っても過言ではないですから。
とはいえ、この手の『無知の知』の話は、頭では“わかったつもり”になれても、
一時は行うことができでも、ずっと維持し続けることが非常に難しいものです。
いつの間にか自身の認識の上にあぐらをかき、わかったような口をきいてしまったり、
つい自身の視野の狭さは棚に上げ、他人の視野の狭さにばかり目が行ってしまったり、
その知にはちゃんと実戦が伴っているか、意識してやることが大切でしょう。
今ここからの光景は、こんな感じ。
関連記事
理屈がどこにでもつくとなると、論理より先に、結論ありきになることもある
一見間違っているようにも思える他者の論理もしっかりと認識できているか