遺伝的多様性 - 自分と他者は同じ人間でも、異なる個体である -
「ある一つの種の中での遺伝子の多様性」(cf.Wikipedia)
生物はその多様性を確保するため、常に新たな遺伝子を持つ個体を生み出しています。
ならば、常識から外れたイレギュラーな個体も、いない方がむしろ不自然でしょう。
目に見えない差異も認識できているか
「どうして人間には性別があり、男女に分かれてるの?」
「それはね、互いに不完全な部分を補い合い、愛し合うためだよ(キリッ」
…などというロマンチックな回答も一興ではありますが、
「両親の遺伝子を組み替え、新たな遺伝子の組み合わせを持つ個体を生産するため」
と回答するのが生物学的には主流なのではないかと思います。
つまり、生物学的にはそうした遺伝子や個体の多様性が重要なのであり、
頭脳明晰で運動神経抜群な、理想的な人間(のクローン)で溢れ返った世界よりも、
優等生から劣等生まで、多種多様な人間で構成された世界の方が良いのです。
具体的にどう良いのかはWikipediaの『有性生殖』あたりを参照してください。
故に当然、人間にも多種多様な個体(人)が存在します。
これは単純ながら案外見落としてしまいやすい観点だと思います。
例えば「自分にはできたんだから、当然お前もやればできるはずだ」もしくは逆に
「あいつができたんだから、当然自分もやればできるはずだ」という主張です。
これは「真実よりも優れた嘘」という観点では正しいと思いますし(嘘も方便)
後天的な要素も大きいですから、殆どの場合、その意味においても正しいでしょう。
しかし、それと同時に先天的な差異という例外の存在も忘れてはならないと思います。
先天的な差異や多様性が目に見えるものばかりであるとは限りません。
「人間ならこれくらいできて当然だろ?」と、何でも後天的な努力論で片付けるのは
「人間なら五体満足で生まれて当然だろ?」と発言するに等しい…かもしれません。
ちなみに「両親の遺伝子を組み替えるなら雌雄同体で良くね?何で男女別々なの?」
という質問に生物学的に回答するなら「男女で役割を分担するため」でしょう。
すなわち「男女分業は生物学的には合理的」であり、男女平等を目指すのならば
それを理解した上で、その先を模索しようとする姿勢が重要なのかもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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多種多様な個体が生まれ続けるから、進化もできるし環境への適応もできる
ただし「できて当然」という“思い込みの力”は、非常に大きな力を持っている