毒薬変じて薬となる - その本質はどこにあるか -

「物は使い方によって毒にも薬にもなるというたとえ」(JLogosより)

 

使用上の注意をよく読み、用法・用量を守って正しくお使い下さい\ピンポン/

その薬が文字通り薬となるか、逆に毒となるかは、そうした条件があるものです。

 

その結論に背景や条件は伴っているか

 

A「トマトやナス、一説には米や加工肉まで、過剰摂取は身体に毒だったんだよ!」

B「な、なんだってー!身近な食品に毒性があったなんて…もう食べるのやめよ…」

A「いや、あくまで過剰摂取が駄目なだけで、普通に食べる分には…おい、話聞けよ

 

『甲の薬は乙の毒』『薬も過ぎれば毒となる』など、薬と毒に関する言葉は多いですが

用法・用量を誤れば毒となるのは決して薬に限った話ではないでしょう。

『毒をもって毒を制す』が如く、使い方によっては逆に毒が薬となることも含め、

えてして薬と毒、良いことと悪いことは紙一重であり、

 

大抵の事象は薬と毒、その両方の側面を併せ持っていて

 

その善し悪しはその目的や背景、条件なしには語れないのだと思います。

 

例えば、包丁は使い方によって、調理道具にもなれば殺人の凶器にもなります。

核兵器原発事故で悪名高い放射線だって、人の健康を害することもあれば、

放射線治療という形で逆に人命を救うこともあるでしょう。

 

ともすれば人は難しい過程や背景はすっとばして、その結論だけを知りたがりますが、

シンプルに良いか悪いかの二者択一で済ませられる結論などそうそうなく

どのような条件下でそれは薬となり、また逆に毒となるのか、

そうした両方の側面を意識しようとする姿勢が大切なのではないでしょうか。

 

 

「包丁を凶器に殺人が起きた…それは悲しいけど、悪いのは包丁じゃなく使い手だよ」

「核戦争で国や世界が滅んだ…それは悲しいけど、悪いのは核じゃなく使い手だよ」

 

価値観が分かれる所だとは思いますが、いくらそれが使い手の問題だとはいっても、

そのもののリターンが大きいほど、それに伴いリスクも大きくなるものでしょう。

ではどこまでが「使い手の問題」で済ませられ、どこまでの毒を許容してもいいのか、

毒を恐れていては薬は扱えませんが、そうした観点の意識も大切かもしれません。

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

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