他者への批判は自らにも跳ね返る諸刃の剣。その刃を受け止められるか。
我が身や身内への対応でこそ真価が問われる
「信頼が厚く、可愛がってきた部下を、泣く泣く処刑する」という話は中国に限らず、
『泣いて馬謖を斬る』の語源と似た話は、日本でも新撰組などであったそうです。
何故、彼らは私情に流されず、愛する部下に恩情をかけなかったかといえば、
「なんだ、上司のお気に入りは規律違反しても許されるのかよ」と思われてしまうと、
そうした前例を作ると、軍の規律が崩壊する恐れがあったからでしょう(蟻の一穴)
皆の益のために個人に不自由を強いるのが規律であり(無理が通れば道理が引っ込む)
組織の規律も意思疎通も信頼関係を前提とするものですから(郷に入っては郷に従え)
そんな中で利己的な都合をふりかざせば、その前提が崩れてもむしろ当然です。故に、
自身に不利益な事柄でこそ主張を一貫させられるかが重要
な訳ですが、こうした事情は規律に限らず、個人の主義主張においても同様でしょう。
例えば「責任を取って辞めろー!」と声高に叫んでいた人間が、
いざ身内の不祥事となると黙り込んだり、「うちのは問題ない」と開き直ったり、
いざ我が身となると「このまま辞めずに続けて責任を…」と弁明したり、
そうして言行不一致が露呈して信頼を失墜するケースはそう珍しくないと思います。
勿論、人の主義主張というのは論理ではなく結論ありきで(石に漱ぎ流れに枕す)
敵には厳しく味方には甘くなってしまいがちですから(坊主憎けりゃ袈裟まで憎い)
これらの言動もある意味自然なことではあるのですが、泣いて馬謖を斬れるか否かで、
その人の、その主義主張の真価が問われるという観点は重要でしょう。
ただし、泣いて馬謖を斬っても、以後万事うまくいくとは限りません。
そもそもそんな判断を迫られる状況に陥った時点で既に手遅れかもしれませんし、
馬謖という有能な人材を失ったことが痛手となり、後に衰退を招くかもしれません。
逆に、規律よりも人情を大切にした方が良い場面もあるかもしれません。
何が正解なのか、世界はそんな単純に語れるものではありませんが、いずれにせよ、
安易に楽な方に逃げるのではなく、保身に走る対価を把握することが大切でしょう。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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結局、斬った方が良かったのか否かは、後になっても容易に判断できるものではない