負けるが勝ち - 勝つためにこそ負けられるか -

「争わないで相手に勝ちを譲ったほうが自分にとって有利」(故事ことわざ辞典より)

 

前回で議論の虚無性的なことを語っておきながら今回議論の話をするのもアレですが、

今回はあくまでも、互いに建設的な議論を模索することを前提とした上での話。

 

負けを認めることを恐れるのではなく、事実と逸れることを恐れよ

 

A「お前、何か色々やらかしたのに報告しなかったんだって?」

B「ち、ちげぇし。周りが勝手に勘違いしただけだし(図星」

 

と、ここまで露骨なケースは流石に稀にしても、周囲から不意に責められた際、

つい咄嗟に、結論ありきな否定を口走ってしまった結果(石に漱ぎ流れに枕す

それが後に泥沼化して苦悩することに…なんて話は決してそう珍しくもないでしょう。

 

まぁ人間ですから、ミスや過ちの一つや二つは犯しても当然というものですし、

恥ずべはそれを素直に認められない矮小さな訳ですが(実るほど頭を垂れる稲穂かな

いざとなると防衛本能が勝りがちなのは、人情の常なのかもしれません(天理人欲

しかし、そうして目先に執着していると長期的には不利益を被るように(朝三暮四

 

本来負けるべき所で負けられないが故に負けてしまう

 

こともある訳で、時には折れることも大切なのはこれに限った話ではないでしょう。

例えば、論戦相手の主張は『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』とでも言わんばかりに、

何から何まで否定しなければならないかのような錯覚に陥ってしまいがちですが、

大切なのはむしろ、批判の最中でも肯定すべき所を見極めてやることだったりします。

 

というのも、盗人にも三分の理があるように、間違っていると感じる相手の主張にも、

事実に即した、一側面としては正しい部分も少なからずあるもので、そうした、

本来肯定すべき部分まで否定してしまうと、それこそ泥沼に陥ってしまうでしょう。

 

謝罪すべきは素直に謝罪し、認めるべきは素直に認め、負けるべき所では負ける。

何かで負けないために大切なのは案外、そこへの執着を捨てることかもしれません。

 

 

とはいえ「求める所から不幸は始まる」と執着を戒めるのが東洋哲学であるのに対し、

西洋では「求めよ、さらば与えられん」なんて言葉もあるように、

人は執着するからこそ苦悩もすれば、執着するからこそできる成長だってあるもの。

その執着は一体何を生むのか、そうしたことを意識してやるのも大切でしょう。

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

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