木に縁りて魚を求む - 間違っているのは自分か、手法か、世界か -

「物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うこと」(故事ことわざ辞典より)

 

諦めずに木に登り続けていれば、いつかは魚を…

猫や海鳥が偶然落としてくれる可能性もゼロではないから世界はややこしい。

 

手法そのものの問題を、人に責任転嫁してはいないか

 

A「お前にも省みるべき点はあるはずだ!もっと上手に木を登れたはずだ!」

B「いや…例えどんなに上手に木を登れても、木から魚は捕れないから…」

 

人間、案外他ならぬ自分自身のことでこそ盲目的な側面もあるもので(岡目八目

ただ精一杯努力さえしていれば、例え努力の方向音痴でも、成果が伴っていなくても、

「自分に落ち度はない」なんて思い込むケースもそう珍しい話ではないでしょう。

しかし、失敗を認められない者には正しい現状認識も成長もなく失敗は成功のもと

まして、基本的に失敗の責任が100%自分or他者ということはないのですから、

自省の意識は常に持とうとすることが大切なのだと思います(堂が歪んで経が読めぬ

 

…が、しかし一方で、自身の落ち度云々以前の問題としてそもそも、

 

手法そのものが間違っている場合だってあるでしょう。

 

それこそ、木に登って魚を捕まえられずに失敗した挙げ句、

「自分の木の登り方が悪かったなぁ…」などとそれっぽい反省をしても的外れな訳で、

常に多様な失敗要因を想定した上での考察が重要なのだと思います。

 

 

ただし、この手の話で難しいのは、それは本当に本質的に手法が間違っているのか、

それとも単に努力や工夫が足りないだけなのか、その見極めが困難なことでしょう。

 

例えば、手法の正しさとは無関係に、単なるで成果が決まることもあります(麻雀

手法の正しさとは別に、自身と手法との相性の問題もあります(顰に倣う

自身や手法とは別に、周囲の環境が変われば正しさも変わります(焼きなまし法

真に革新的な手法は時に専門家の理解をも超えます(燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

 

ですから結局、習うためにこそ慣れるが如く、手法の正誤を判断するためにこそ、

まずは手法が正しいと仮定した上で、精一杯試行錯誤することも大切であり、

「この手法では駄目だ」と分かることは失敗ではなく、立派な成果と言えるでしょう。

木に登れば魚は得られずとも、木の実や新たな光景は得られるかもしれませんしね。 

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

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