「人格者ほど謙虚であるというたとえ」(故事ことわざ辞典より)
プライドには二種類あると思います。すなわち、
「それ故に自由に在れなくなるプライド」と「それ故に自由に在れるプライド」です。
自信があるからこそ、自身の足らざるを恐れずに済む
「あの人って傲慢でプライドが高くて…自分に絶対的な自身があるんだろうねー。」
傲慢でプライドが高い人というと、そんな自信家のイメージがあるかもしれません。
勿論、実際にそういう人もいるとは思うのですが、
人は必ずしも、自分に自信があるから傲慢になるとは限らないでしょう。
むしろ逆に、本当は自分に自信がないからこそ、それを隠すための臆病な虚勢を張り、
本当は不安で仕方がないからこそ、自分の価値が下がるのが怖くて頭を下げられず、
他者に責められるのが怖いからこそ、他者を責める側に回って安心感を得ようとする、
そうした光景が周囲の目に「プライドの高さ」や「傲慢」として映っている場合も、
傲慢でプライドが高そうな人ほど、実は自分に自信がないという場合もあるものです。
人間、本当に自分に自信があるのであれば、
多少自分や頭を下げた程度で自身の価値は下がらないと考え(天上天下唯我独尊)
むしろつまらぬ意地を張って自分や頭を下げられない矮小さこそ忌避するものですし、
周囲の目にはそれが、器の大きさや謙虚さとして映ることも多いでしょう。
また、未熟な人が無知故の全能感に浸るのならば(ダニング=クルーガー効果)
真に実力のある人は、学びて後の足らざるを、『無知の知』を知っており、
実力や自信があるからこそ素直に自身の足らざるを認められることもありますから、
『実るほど こうべを垂れる 稲穂かな』は、決して単なる美徳の話ではないと思います。
「それ故に頭を下げられないプライド」と「それ故に頭を下げられるプライド」
「それを守ろうと保身に走るプライド」と「それ故に困難に立ち向かえるプライド」
一口に『プライド』といっても、その実態は人によって大きく異なるものです。
それは自由に在るための障壁にも、エネルギー源にもなりえるものですから、
そのプライドは合理性を阻害する枷か、それとも武器か
そんな観点から自身の心を観測してやることも大切かもしれません。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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