誤解されるのは嫌なことですが、“誤解を与えた側”にも落ち度はあるでしょう。
- 四字熟語。人から疑いをかけられるようなことはしてはいけないし、疑いを受けるような状況に身を置いてはならないという教え。中国の古楽府の「君子行」の「君子防未然、不処嫌疑間、瓜田不納履、李下不整冠」から出た言葉である。 続きを読む
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信頼がなければ「本心」も「保身」としか受け取ってもらえない
瓜畑で靴を履き直したり、李の木の下で冠をかぶり直せば泥棒と疑われるから控えよ
…という『瓜田に履を納れず』と『李下に冠を正さず』を合わせて『瓜田李下』。
人から疑念を持たれてしまうことの恐さは、主に二つあるでしょう。
一つは、その疑念を晴らすのが困難なことです。
人は言葉ではなく、信頼関係で意思疎通するのものですが(郷に入っては郷に従え)
“疑われる”ということは、その意思疎通の基盤が揺らぐことを意味します。
まして、都合の良い理由なんていくらでも後付けできますから(石に漱ぎ流れに枕す)
いくら「それは誤解だ」と弁明しても、それで心の真偽を証明するのは困難でしょう。
そしてもう一つは、その疑念を“密かに”抱かれてしまうことが多いことです。
人は不審を抱く対象とは距離を取りたがるため、相手が疑念を表明してくれることは稀
…どころか隠そうとすることも多いのが問題で、ただでさえ弁明が困難だというのに、
そうした“声なき疑念”を察知できないと、もはや弁明の機会すらも得られません。
まして、それが上司と部下のような堅い関係であれば、尚更表面化しにくいでしょう。
一度疑念が生じた対象は何もかも疑わしく思えるため(坊主憎けりゃ袈裟まで憎い)
そうして信頼が失墜し、意思疎通が困難になった頃に気付いても後の祭りです。
「大切なのは本心や真実、それらが正しければ誤解されてもきっとわかってくれる!」
それも一理あるとは思いますが、人の意思疎通が信頼関係の上に成り立っている以上、
「後ろめたいことがなければ、真実に問題がなければ大丈夫」ではなく、基本的には
疑念を持たれてしまったら、その時点でアウトなのだと
誤解を招くようなことはそれ自体が、それだけで問題であると戒めるべきでしょう。
真実も、本心も誠意も、相手に理解してもらえなければ無意味なのですから。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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