自分にとっての正解や価値あるものが、他者にとってもそうであるとは限りません。
- 故事成語で、独り善がりでいるさま。偉ぶっているさま。 続きを読む
- このキーワードを含むブログを見る
自分が田舎者であるという自覚はあるか
その昔、遼東という地方で頭の毛の白い豕(豚のこと)が生まれた。
これを珍しがった農民は、王に献上しようと出かけたのだが、
他の地方ではむしろ頭の白い豚ばかりで、実は珍しくもなんともなかったため、
恥ずかしくなって途中で引き返しましたとさ。ちゃんちゃん。
『遼東の豕』の語源はそんな、いわば見聞の狭さ故に恥をかいた田舎者の話です。
しかし、自分の住んでいる世界の常識で相手の世界も推察してしまい失敗した、
という話は田舎者に限ったものではなく、決して珍しい話でもないでしょう。例えば、
・凄い成果を上げたぞ!評価してくれ! ← 実は皆同等以上の成果を上げていた
・凄く努力したぞ!なのに勝てないなんて… ← 実は皆それ以上に努力していた
・凄く辛い目にあった…なんで私だけ… ← 実は皆似たようなものだった
などなど。過去に一つくらいは心当たりがある方もおられるのではないでしょうか。
人は同じ世界や空間を共有していても、人の数だけ異なる世界を認識し(環世界)
心によって主観的に創り上げられる架空の世界の住人である以上、
誰しもが他者や世界という名の都に対しては田舎者であり
架空のそれらを基準や論拠とした持論を構築してしまいがちであると、
身勝手な認識や価値観に溺れてしまいがちだと自戒する必要があるのかもしれません。
教師「若いときから勉強しておかないと大人になってから後悔するよ!」
少年兵「戦わなければ生き残れない環境下で勉強…命がいくつあっても足りないです」
正しさや価値というものは、その前提となる背景に依存しているもので(顰に倣う)
科学や平等が害とされた時代もあったように、その世界によって正しさは異なります。
それは物理的な世界の差異に限らず、『環世界』の差異においても同様であり、
自分にとっては正解であっても、善かれと思っての行動であっても、
相手にとってはそれが『遼東の豕』でしかない可能性を排してはならないでしょう。
今ここからの光景は、こんな感じ。
関連記事
他者を語ることは、架空の他者について思い込みで語るに等しい側面がある
自分の世界の常識で他者の心境を推し量り、安易に共感を示してはいないか