例えば、このサイトとて“故事ことわざ”という名の虎の威を借りている訳で←
- 「借虎威」の書き下し文。「戦国策」の一説で、他人の権勢をかさに着て威張る小人のたとえ。 「虎の威を借る〇〇」という形で使われる。「狐借虎威(虎の威を借る狐)」が元。 続きを読む
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“皆”という曖昧にして強力な権威
“虎の威”と耳にすると、ついつい特殊で露骨な権力者ばかりをイメージしがちですが、
民主主義の現代社会では主権者たる国民も、多数派もある種の権力者でしょう。
実際、多数派の総意は下手な権力より強く、社会や国を動かすに十分な力があります。
ただし、それが本当に“多数派の総意”であるならば。
というのも、国民,県民,市民,オール○○,皆,クラス全員…などなど、
多数派であることを意識した主語は、耳にする機会こそ多いですが、
殆どの場合は脚色が入っており、それが本当に“総意”であることは稀なものです。
例えば、一見大多数が賛同しているように見えても、実は主体的なのは極一部だけで、
殆どは「だって皆賛同してるから」などと周囲に同化した傀儡ばかり(和して同ぜず)
立派なのは外面の人数だけで、その実態は総意とは程遠かったり(寄らば大樹の陰)
場合によっては少数派の人間が、本当は自身の主張に自信がないからこそ、
多数派を意識した主語を用いて権威付けしようとしていることだってあるでしょう。
某オサレ死神「あまり強い主語を遣うなよ 弱く見えるぞ」
ですから、“皆”という意味合いの、多数派を意識した主語を耳にしたら、
その虎の威は本物なのか、具体的にはどれだけの人が主体的に賛同しているのか、
幻の虎の威光の陰に隠れた、狐の姿は見通せているか
そんな観点から、主張そのものを等身大に捉えようとする姿勢が大切かもしれません。
ただし、少数派の人間があたかも多数派であるかのような主語を用いていたとしても、
それは必ずしも確信犯であるとは限らないでしょう。
例えば、賛同者が日本の人口約1.2億人の0.1%にも満たない10万人の少数派でも、
極端な話、それが全国から一堂に会して10万人の集会やデモが開催されれば、
あたかも自分達が多数派であるかのような錯覚に陥っても不思議ではありません。
周囲に賛同者が集うのは当然だと、戒めるべきなのでしょう(類は友を呼ぶ)
今ここからの光景は、こんな感じ。
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