とりあえず必死に主張し続ければ、いずれは受け入れられる…とは限らないでしょう。
その批判はいたずらに敵対を煽ってしまってはいないか
ある所に、上役の悪だくみを知り、身の危険を覚悟の上で皇帝に訴えた家臣がいた。
結果、皇帝の怒りを買って連行されてしまうのだが、その最中も
「主君に進言して死ぬなら本望!しかし貴方はどうなる!?民から何と言われる!?」
と必死に訴え続け、その抵抗の激しさは掴んでいた檻(手すり)が折れるほどだった。
というのが『折檻』の語源らしいですが、似た話として、日本でも侍が主君に対し、
自分の血をもって最後の訴えをするのは、ごく普通のことであったそうな。
…なんて話も今は昔、文字通り命懸けで進言する機会など現代ではまずありません。
しかし、「それは他ならぬ貴方にとって良くない」「私は貴方の味方として訴えたい」
という姿勢と誠意は現代にも通じ、学ぶ点が多いのではないかとも思います。
というのも、デモなどで(目上の権力者などに)自分達の主張を訴えるとなると、
「怒りの声を聴け!」「権力との闘いだ!」などと敵対的になってしまいがちですが、
敵対する人間の意見を素直に聞き入れるのは余程の聖人
だけであって、信頼関係という土台なくして会話は成立せず(郷に入っては郷に従え)
必死に訴えれば訴えるほど敵対関係が深まり、より会話が困難になりかねません。
実際、『折檻』の語源となった話でも、皇帝の怒りを買った家臣は後に許されますが、
皇帝が怒りを鎮め、一時は敵対した家臣の誠意を認め、反省するきっかけとなったのは
これまた命懸けで皇帝に進言した(信頼関係のある)側近の言葉だったそうな。
イソップ童話の『北風と太陽』が如く、北風のように相手を強引に変えようとせず、
太陽のように相手が自発的に変わるのを促すことが大切なのかもしれません。
とはいえ、この手の話に絶対はなく、相手の判断は相手次第ですし(パブロフの犬)
いくら誠意を込めた親身な進言をしても、実は間違っているのは自分の方だった
…なんてオチも有り得るのが難しいところでしょう(燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや)
今ここからの光景は、こんな感じ。
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