「好きなものに対しては熱心に努力するので、上達が早い」(故事ことわざ辞典より)
努力しても、必ずしもそれが他者より秀でるほど“上手”になるとは限りませんが、
人間、自分の“好き”なことなら熱心に、しかも効率良く努力できるものです。
好きになる努力はしているか
誰かから「そうしなさい」と強制された訳ではなく、自ら進んで、
親から「日が暮れるまでには帰ってくるのよー」と心配されるほどに
文字通り夢の中にいるかの如く、練習に夢中になって取り組む野球少年のように
それが誰かから強制された「しなければならない」ことなのか、それとも
自分の好きな、自分の意志で決めた「したい」と思えることなのかによって、
それに取り組む際の効率や精神的負担は大きく異なるものでしょう。
なに?自分の好きなことばかりをやって生きていけるなら苦労はしない?
それは無理矢理、元から好きなことにこだわるからだよ
逆に考えるんだ「後から好きになっちゃってもいいさ」と考えるんだ
第一印象は悪くとも、関わりの中で次第に好きになることもある人間関係のように、
後から好きになることは決して不自然なことではないと思いますし、
どうせやるなら、好きになってしまった方が得でしょう。
勿論、人間ですから多少の好き嫌いはあって当然ですし、尊重されるべきですが、
「どうしても好きになれない」と「好きになる努力もしていない」では話が違います。
普通、“好き”と“上手”は必ずしも合致せず、好みと特技は分けて考えるべきでしょう。
ただし、『好きこそ物の上手なれ』の“好き”にも度合い(尺度水準)があります。
例えば、同じ「ゲームが好き」という言葉でも、それが趣味レベルのものなのか、
それともプロゲーマー並みに人生を賭けられるものなのかでは大きく異なります。
つまり、「自分にとってこれこそが人生!やってて楽しいし休日など不要ッ!」
と言えるほどの“好き”はもはや別格で、反則的なまでの努力量によって
『好きこそ物の上手なれ』の文字通り“好き”と“上手”が直結するケースもあり、
各界でのトップやカリスマ的な人にはこのタイプが多い…かもしれません。
反則的なまでの才能や、努力の方向音痴など、例外も当然あるとは思いますけどね。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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