「口先で議論を重ねるよりも、証拠を出したほうが明確」(故事ことわざ辞典より)
A「○○細胞を発見しました!この発見にはあんな苦労やこんな理想が…」
B「感動的だな。だが無意味だ。貴方の主観はいいから証拠を見せてくれ。」
実践が伴えば主観は事実と化す
世の中にはちょっとした愚痴から国家規模の大志まで、様々な主張がありますが、
そういう主張にはえてして真実からは程遠いものも含まれているものです。
それは必ずしも悪意故に、意図的に嘘をついているとは限らず、
むしろ盲点に気付けないが故に自信を持ってしまい(ダニング=クルーガー効果)
本人も自身の主張の穴を見落としている場合が殆どではないでしょうか。
そんな人間の無知を、互いに盲点があることを想定した上で(言うは易く行うは難し)
どうすれば建設的に議論を重ねられるかを説いたのが『論より証拠』であり、
自他の主張の中から主観と客観を切り分けて考える
ということが重要なのではないかと思います。
主観的な、感情的な主張は相手の心に訴えかける力を持つ重要な要素です…が、
そんな主観同士、感情同士がぶつかったところでロクな議論にはなりません。
それこそ「価値観が違いますね」の一言で終わるのが関の山でしょう。
ですから何かを論じるなら、客観的な証拠に、具体的な行動事例に、
そこで得られた具体的な成果に焦点を当てた方がよっぽど建設的でしょう。
それこそ、実践の伴わない主張は机上の空論だと切り捨て(知行合一)
学術の如く、ただただ数字と事実のみを追求するクールさが必要…かもしれません。
念のために申し上げますが、主張に主観が不要だとは思いません。
いくら論理や数字を羅列しても「むつかしくてわかんない☆」で片付けられたり、
論理とは別にある相手の芯に響かねば、人は動かせません(石に漱ぎ流れに枕す)
しかし、建設的に議論を積み重ねるには、主観はむしろその障害となりかねません。
本人は客観だと思っていても、結論にはついつい主観が混じってしまうものですし、
主観なくして果たしてどれだけの情報を、数字や事実から得られるかは微妙ですが、
少なくとも主観を極力排除しようと意識することは重要ではないでしょうか。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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