「小事をおろそかにしてはならないという戒め」(故事ことわざ辞典より)
人間、目先の塵を見つめ、観察するのは得意でしょう。
しかし、その塵が積もり、山となった姿を想像することは意外と難しいものです。
たかが塵、しかし、塵なくして山はできない
『微分,積分』…と耳にすると拒否反応を示される方も多いかと思いますが、
その計算式はともかく、その概念自体は結構単純で、重要な視点だと思います。
例えば「塵が積もって山となる様子」を題材として用いるなら、
塵の山に降り積もる一つ一つの塵を求めるのが微分
塵が積み重なってできた山の全体像を求めるのが積分となります。
だから、『今ここからの光景』という名のサイトを微分すると一つ一つの記事になり、
こうした一つ一つの記事を積分すると『今ここからの光景』という名のサイトとなる。
何?例えが正確じゃない?こまけぇこたぁいいんだよ!!
そんな個と集団のような関係性の構図は、物事を認識する上で重要な視点でしょう。
例えば、人の心や魂という類いのものは、
それまでの在り方や行動が積み重なってできた山である
と考えられるのではないかと思います。
だから行動とは魂から自然と滲み出るものであり(仏作って魂入れず)
逆に魂という山に存在しない行動は、どうしたって不自然になるし形骸化してしまう。
だから日頃の一つ一つの行いを軽んじてはならず(蟻の穴から堤の崩れ)
「これくらい…」という行動が積み重なれば、それはやがて魂自体を蝕むこととなる。
これは「行動の積み重ねが魂である(キリッ」などという大層な話に限りません。
人間、目先を全力疾走するのは得意ですが、行動の積み重ねでできあがる山を、
成果を最大にするために目先の行動を調整するのは難しいものです(朝三暮四)
マラソンのペース配分が如く、飛ばしすぎてしまったり、逆に慎重になりすぎたり。
ですから塵と山、微分と積分の、両方の視点を持つことが大切なのだと思います。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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行動という名の塵の一欠片から、人という名の塵の山全体を推測するのは困難である