「理屈に合わないことを権力によって無理に押し通すこと」(故事ことわざ辞典より)
自分と他者が同じ対象を観測し、互いに異なる観測結果を得た際、
自身の無知を疑う姿勢は大切でしょう。しかし、疑うことと否定することは違います。
自身の観測結果を否定することは、他者を盲信することだ
権力者「これは鹿じゃなくて馬だ。私が言うからには馬なのだ。いいね?」
一般人「アッハイ(アイエエエ!」
というのが『鹿を指して馬と為す』の語源なのですが…
こんなあからさまな、故意犯のケースばかりなら話は簡単なんですけどね。
権力者「この白い鳥はカラスだ。いいね?」
一般人「鹿を指して馬と為そうってか?権力に屈するつもりはないッ!(キリッ」
権力者「え…いや、ホントに白いカラスなんだって!アルビノなんだって!」
みたいな誤解のケースも実際には混在しているから世の中難しいのでしょう。
この例ではアルビノという比較的説明が容易な、確立された事象だからいいものの、
現実社会での事象はもっと抽象的で、言語化困難で、経験が重要で(知行合一)、
理解には聞き手にも相応の専門知識や能力が求められるようなケースも多いため、
その権力者の主張は正しいのか、それとも故意犯なのか
その見極めが非常に困難であることが、問題となってくる訳です。
勿論、他者やその分野の専門家に判断を仰ぐのも賢い方法であるとは思いますが、
それに依存し過ぎては、権力者が専門家という名の別の権力者にすり替わっただけで、
問題の本質的な構造はなんら変化しない点に注意せねばなりません。
権力者のそれが故意犯なのか、それともむしろ相手の観測結果の方が正しいのか、
その判断は極めて難しいものですが、一番まずいのはその判断を誤ることではなく、
思考停止に陥り、その判断を他者に依存してしまうことではないでしょうか。
「自分にはよくわからないけど、あの人が言うから正しいのだろう」などと盲信しては
それこそ『鹿を指して馬と為す』の文字通り“馬鹿”と言われても仕方ないと思います。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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