「仕事には適不適があるものだから、適任者を選べ」(故事ことわざ辞典より)
人と異なることを恐れていては、人より大きく優れることは難しい。
しかし、人と大きく異なっていても、それが優劣どちらに転ぶかはわからない。
優劣はただの結果であり、単なる差異こそが本質である
魚を焼くなら、殿様のようなおっとりした性格の人に焼かせるのが良い。
餅を焼くなら、乞食のようながつがつした性格の人に焼かせるのが良い。
さてここで問題。殿様と乞食、どちらがより優秀な性格でしょうか?
…などという議論を始めてしまうと、恐らくいくら時間があっても足りないでしょう。
身が崩れやすい魚を焼くのか、焦げやすい餅を焼くのかで望ましい性格が異なるように
目的と背景の設定なくして優劣の判断は困難だと思います(毒薬変じて薬となる)
例えば恐らく誰もが知っているであろう歴史上の偉人、織田信長。
彼は戦国乱世では確かに天才的なカリスマ武将だったかもしれません…が、
果たして平成の世においては、どうなっていたでしょうか?
「戦時中の英雄は、平時では大量殺人鬼 」なんて類いの話はしばしば耳にします。
人間に本質的な優劣はなく、あるのは差異のみであり
その差異が、どんな時代のどんな環境で、
何を目的とするのかを設定することで初めて、優劣として認知できるのだと思います。
たまに「一流の経営者やアスリートは変な人が多い」なんて話を耳にしますが、
特に表現者である芸術家や美大生には変な人(になりたがる人)が多いようですが、
個人的には至極当然のことだと思います。
「普通の人とは大きく異なる」から「普通の人より大きく優れる」ことも可能な訳で、
「普通の人と殆ど変わらない」のに「普通の人より大きく優れる」方が不可思議です。
ただし「大きく異なる」ことが必ずしも良い方向に転がるとは限りません。
当然ながら、目的と背景次第では逆に大きな欠点にだってなりえる訳ですから、
どんな環境ならその差異を長所とできるのか、模索と見極めが大切なのだと思います。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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だから些細な優劣にとらわれてはならず、『本質は空である』と思うくらいでいい
どんな人間でも性格でも、短所や批判は創り上げることができてしまう