仏作って魂入れず - その行動には魂が伴っているか -

「いちばん肝心なものが抜け落ちていることのたとえ」(故事ことわざ辞典より)

 

世の中には「こうすればうまくいく!」みたいな手法や方法論で溢れていますよね。

でも、そんな手法や方法論なんて枝葉末節だと思います。

 

手法や行動を学ぶことは、単に模倣することではない

 

手法や方法論、行動の有用性はその背景に依存します(顰に倣う

例えば、それを一体誰が行ったのかが重要なのであって、

その手法が本物であることと、それを自分が実行してうまくいくことは別問題です。

 

そもそも本来、行動というのはいわば“心の実践”であり(塵も積もれば山となる

姿勢や魂とでもいうべきものから自然と、必然的に滲み出てくるものです。

ですから姿勢や魂、意志の伴わない行動はどうにも不自然に映ります。

 

例えば敬語。

勿論文法的に正しいかとか、語彙力はどれほどだとか、そういう問題もありますが、

本当に心の底から相手を尊敬しているなら、敬語など自然と出てくるはずです。

 

単なる緊張や礼儀としての形式的な敬語と、心から滲み出る敬語ではものが違います。

それこそ、上っ面の敬語ほど不自然なものはありません。特に一部の就活生とか

逆に、心から滲み出た敬語は多少文法が不自然でもあまり違和感はないと思います。

 

ですから手法や行動を学びたいのなら、枝葉末節のそれのみならず、

 

実践を通して、その行動の裏にある姿勢や魂を学ぶ

 

ということを忘れてはならないと思います。

上っ面の行動を模倣することのみに満足して、要である姿勢や魂を軽視していては、

それこそ文字通り『仏作って魂入れず』となってしまいますから。

 

 

人間、自分以外の何かを学ぶというのは難しいことであり、

「その行動が自然と自分の姿勢や魂から滲み出るようにする」ことこそが、

他者の手法や行動を学ぶことだと思います。

 

が、そうは言っても結局、自分と相手は別の人間で、その溝は埋まらないでしょう。

ですから『守破離』のような、自己流へ至る学習過程が重要なのだと思います。

 

 

 

今ここからの光景は、こんな感じ。

 

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