「相手が好意を示せば、こちらも好意を示す気になる」(故事ことわざ辞典より)
この言葉、主体が自分か相手かなど、時代や出典によって微妙に意味が異なります
が、少なくとも敵意剥き出しの相手に好意を示す人などそうそういないでしょう。
流れの中に人はあり、人なくして流れはない
相手から施しを受けるとお返しをしたくなる『返報性の原理』という心理があるように
人間は誰しも少なからず繋がっており、他者は少なからず自分の姿を映します。
敵意には敵意を、好意には好意を、相手は自分を映し、自分は相手を映す
人にはそんな鏡のような側面があると思います(人こそ人の鏡)
それはつまり、人が集まる所には合わせ鏡のような現象が発生するということです。
友好的な相手には好意で返そうと、互いの鏡に好意を映し合う正の循環
敵対的な相手には敵意で返そうと、互いの鏡に敵意を映し合う負の循環
そうした目には見えにくい、合わせ鏡によって生じる大きな流れが世の中にはあり、
誰しもが少なからずそうした流れに身を置いているのだと思います。
友好的な人の輪に身を置く人は、自然と自身も友好的になりやすく
敵対的な人の輪に身を置く人は、自然と自身も敵対的になりやすい
人はそうして流れに影響を受け、流れに染まりやすい傾向があると思うのですが、
そうこうしている内に自身もその流れの一部と化しているということを
自分自身もその流れを構成し、それを作り出す一部である
ということを忘れてはならないと思います。
眼前の負の流れを誰かのせいにするのは簡単です。
実際、その流れのきっかけを作ったのは他者で、自分は無関係なことも多いでしょう。
しかし、それと自身も負の流れの構築に加担することはまた別の話です。
自分の嫌な環境作りに他ならぬ自分自身が加担していないか、
自分で自分の首を絞めていないか、そうしたことには注意する必要があると思います。
今ここからの光景は、こんな感じ。
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人は少なからず他者を、社会を、その環境を映し出す鏡のような側面がある
あくまで「流れに影響を受け、流れに染まりやすい“傾向”」であり、縛られはしない